総司令官と絵の具屋主人の間に交わされた、
奇妙な友情物語
マッカーサー司令部から呼出し状がきたとき、月光荘創業者の橋本兵蔵は、もはやこれまでと覚悟をきめた。戦争犯罪人の調べが始まっていた。
戦地へ赴いたわけではないが、戦時中も一貫して、絵の具を作り続けていた。それが戦争絵画の支えとなっていた。戦意高揚への寄与がたいへん大きかったと言われれば、それは致し方なかった。
月光荘創業者による述懐。
「当時は仲間うちからも投書があったりしてね、いやなもんだった。結局、戦争絵画については、二人の責任者があげられたんだな。一人は先日死んだ藤田嗣治先生で、これが絵かきのほうの大将だった。それともう一人は、絵具をつくったヤツが悪いというんで、オレの名前があがったんだ。
藤田先生はこんな日本は脱出したい、なんていってたがな。そこで猪熊弦一郎先生のところへ行って、相談した。“すべてが運命だ。いまになって悪いといわれても仕方がない。オヤジあきらめろ”といわれてな。それでオレは、覚悟をきめた。」
勝った占領軍の総司令官と、負けた日本の一画材商とは、このようにして対面した。だがマッカーサーの口からでた言葉は、意外や予想とまったく反していた。
「戦後アメリカは、日本の戦争絵画をどんどん本国に持って帰ったのだがな、輸送に無理をしたんで傷がついた。それを修理するのに、アメリカには絵の具がないというんだ。これにはオレもおったまげたな。」
物資豊かであるはずの戦勝国からの、絵の具の注文だったのである。
「しかもマッカーサーは、こう言うんだな。この大戦中に絵具をつくりつづけたのは、世界中にお前一人だけだ。お前は英雄、ヒーローだっていうんだ。そこでオレはいってやった。あんたこそ英雄だ。それまでの敵地に、タマ一発撃たずに上陸したんだからとな。歴史に残る名将のなかでも、そんな人物は珍しいよ。」
第二次大戦前は英仏エノグの独走でしたが、戦争で炉の火は落ちました。月光荘だけが炉の火を落とさず、ひたすらに色の純度を求めて開発を続けていたのです。
戦時中に製造されていた絵の具“喚問”は“商談”となり、さっそく、GHQのケーディス大佐が、じきじきにお店へ少尉と日系二世の軍人を伴って店にやってきた。だが、代金はあとで集金にこいとのこと。月光荘店主はこれが気にいらない。
「オレんとこは、いままで集金に行くという商売をしたことがない」と反発した。従者たちの目に一瞬殺気が走った。敗戦国のいち商人が何を生意気言うかと。大佐が言った。
「日本の商人は、みんな月末になると、ニコニコして集金にくるではないか。」
これにも反論した。
「一軒ぐらいこういう店があってもいいだろう。」
とうとう“英雄”の意地は通された。占領下の当時としては、たいへん気骨のいる態度だった。国は占領できても、伝統の職人魂までは占領できないことを大佐は理解したのだった。そして大佐は職人との取引の仕方について、その日のうちにアメリカ軍全部の民生部長へ指示を出したと、横須賀海軍基地の民生部長マット氏から伝え聞いた。
後日エノグを取りに来た日系二世の軍人が、「『郷に入れば郷に従え』という日本のことわざを知らんのでうまく通訳ができず、今撃たれるか、今撃たれるかとおどおどするだけだった。このショート劇を二世の皆に広めるのだ。」と言われた。
ケーディス大佐は帰国の際に、
「日本でできたたったひとりの友達が君だよ」
とお別れを言いにわざわざお店に来て、再会を約束し固く手を握り合ったのだった。
マッカーサーのあとには、リッジウェイ中将が赴任してきた。その夫人が月光荘を訪れたのは、来日して四日目のこと。夫人は絵かきでもあったが、前任地のパリにも、まだまともな絵の具はなかった。その夫人が早々と店にやってきたのは、じつはマッカーサーから、つぎのような手紙をもらっていたからだった。
「日本には、小さいけれどなんでも揃っている画材屋が、一軒ある。」
そのため日本にくるのが、たいへん楽しみだったというこの夫人は、さっそく、店をたずねてみて、「さすがは芸術の国だ。浮世絵の国だ」と、大いに感心して言ったという。
リッジウェイご夫妻とお子さん戦時中は、“月光荘絵具”だけが生産されていた。ゆえに戦争記録画は、すべて“月光荘絵具”で描かれていたことになる。戦争記録画の歴史は、そのまま“月光荘絵の具”の歴史を示すものでもあった。
生前、月光荘店主はこんな言葉を残している。
「戦争絵画というと若いもんはバカにするけどな。それは世界の絵画の歴史を知らんからだよ。どこの外国の美術館、宮殿へ行っても、そこでもっとも権威があるのは、戦争の絵画だよ。みんなそれぞれ、当時の最高の力量が注がれた、哀しくも輝ける歴史なんだな。」